ゴールデンウィークをはさんで天候が一変した。しばらくすれば落ち着くだろうが、ここ数日は暑い日がつづいた。S中学校前の歩道わきでは悩ましげなほどにツツジの花が咲き乱れている。ぼくほどの色情狂となると、それだけで欲情がそそられてしまうのだ。止まらない鼻血はなにもピーナッツの食べすぎのせいなんかじゃないだぜ。


 週末の話。Y駅でAらと飲んだ。何軒ハシゴしたのかは定かではないが、あとで聞くと、酔った勢いでずいぶん威勢のいいことを口走っていたようである。
 で、ほかのみんなと違って、ひとり地元でないぼくは、けっきょく五月の排卵色した夜空のしたに、最後にはひとり取り残されてしまった。電車もなければ、タクシー代もない。通り過ぎる人波の誰ひとりぼくのことなど気にもかけない。なんという幸運児なのだろうか。
 しかしそうしていつまでもひとりぼっちで薄汚いネオンの灯りに目をまわしていても仕方がないので、すっぱりと歩いて帰る決心をつけた。
 道がわからないので、線路を見失わないように歩いた。おかげで民家の混みあった細い路地を何本も通らなければならなかった。下着泥棒にでもなった気分だ。どの家も死んだように静まりかえり、吠える犬一匹すらいない。
 知っている道に出たときの安堵感。と同時に、なんだかつまらなく思うところもあった。この歳になっても冒険心はまだ衰えていないのだ。だがぼくの聖杯伝説は始発電車を横目にむなしく終わりを告げたのだった。
 家に着いたときには酔いも醒め完全なシラフであった。主人のいないベッドの横で目覚まし時計は快調に鳴り響いていた。律儀なものである。
 夢遊病者の足取りで仕事へ向かうぼくの後姿を笑ってはいけない。騎士道に神経痛はつきものなのだ。



 こうして低調な日々を送っていると、本を読んだり音楽を聴いたりすることでしか鬱屈したものを発散できなくなってしまう。昨日読んだのはレイン「わが半生」。翻訳に問題があるのか何だかは知らないが、内容のわりに読みにくいように思った。


 レインがまだ子供のころの話。ある日自転車を乗り回していると、自分より年下の五つか六つくらいの男の子が急に道に飛び出してきて、そのまま衝突事故を起こしてしまう。幸い男の子にたいした怪我はなく、レインに過失のないことを証言してくれる大人のひともあらわれた。しかしそうだからといってすぐにその場を立ち去るのもレインには無神経なように思われたので、すこし留まってからその場を去った。これだけだと心の機微に通じたちょっとしたエピソードのひとつに過ぎないが、レインはその場を立ち去ったあとの開放感のなかで、じぶんがはじめて「あの子が無事でよかった」という感慨を抱いたことにまで思い至る。事件の渦中にいるあいだは、その子が無事であるかどうかはあくまで自分が罪から逃れられるかという点においてのみしか考えられていなかったのである。
 「この事件で私の心に痛切に感じられたのは、私の内心には真の愛他精神などありはしないのであり、私の支配的な感情は百パーセント利己的で――卑劣な臆病心だらけとは言えないにしろ――不安だらけなものだ、ということだった」

 大学の講義で、たとえそれが医学教育のためだとはいえ、ナチスユダヤ人に行った実験の記録映画を見せられたことにはげしく憤慨するレイン。最初に見学した外科手術では、アイス・パック麻酔という異例の措置が試みられたが、それがうまく効かずに最後には狂乱する患者を押さえつけての旧式の切断手術となり、そのことに道理の合わない苦しみと恐怖感を覚えたレイン。こうしてぼくらはレインが愛他精神のない利己的な人物であるとは到底考えられなくなるのである。なお解説で中井久夫はこの外科手術のエピソードのからんで、これだけでは「苦痛の理解」に到達しないだろうと指摘している。
 「コミットするということは、少しちがうのではないかと私の中の何かがささやく。当事者となって鈍感にならぬことはむつかしいように見えるだろう。しかし、これは傍観者の感じ方である。手術や解剖を見学すれば嘔吐し、気が遠くなる医者も、自分しか事に当たれるものがいない状況で応急処置を施す時は全く別人になる。血の匂いも剥き出しの臓器も彼を動揺させない」


 ・脳の損傷の回復過程における対人関係の要素
 レインが言うには、神経学的に眺めるかぎり、「人格」というものは消えてしまうのだという。
 「私たちの感受性のとってきわめて直接的なこの他人の存在とというものは、完全に客観的につきとめられるのを拒否する。ほんの数分前までは、僅かな動作をする肉体だけがあった。それが今では誰かが、一個の人間がそこにいる。……他人認知のこの瞬間は、私たちが『意識を回復した』他人によって自分が『眺められた』と初めて感じる瞬間と一致するのかもしれない。私たちは他人が私たちを感じたと感じるのだ」
 たとえばナンという少女の場合、事故後の回復過程において、その動作を神経学的にではなく、人間的な志向と意志をもつものと解釈することが、あたらしい人格形成に決定的に影響を及ぼしたという。
 対人関係においてわれわれが見るのは筋肉の収縮や痙攣ではなく、身振りや表情なのである。人間(人格)というものがあらわれるのは、そのわずかな差異からでしかないのだ。