生気のない生活。例1、Fの借金話。返事に困ってしまう。例2、Mの痴話話。興味の持ちようがない。
 天気もすぐれない。雨が止んだと思えば風が吹き荒れる。今日だけで何千というミニスカートがめくれあがったはずである。うっかり下着を履き忘れてこようものなら軽犯罪に問われかねないところだ。



 S駅まえを歩いていたら、見知らぬ青年に「今日これからこの辺でライブがあるんです」と、いきなりチケットを手渡された。前売り券1500円。どういうつもりなのだろう? とにかく受け取るだけ受け取って、そのまま家に帰ってきた。



 國分功一郎のブログで面白い記事を見つけたのでメモ。
 http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10718864204.htm


 世事に疎いぼくは当然その「記事」というのを目にしていないから、そのせいかもしれないが、どう注意深く読んでも不可解な印象がぬぐえない。
 まず第一に、ごくふつうに考えて、裁判員制度における裁判員の精神的負担は、なにも死刑判決を下したときだけに生じるものだとは思えない。「死刑」を下すときにはダメージがあるが、これがたとえば「終身刑」や「無罪」だったら安穏とできたのに、というのならば、それこそまさに「想像力に大いに問題がある」と言わねばならない。ようするに死刑だけを特化する必要性が不明なのだ。「『本当にこれでよかったのか…』と一生涯悩み続けなければならないほどの疑問」は、ままにならない人生だ、とくに珍しいことではないのである。


 どんなレベルであれ、人を裁くことにはイヤーな後味が残るものだ。あるいはそれを専門的な職業としてしまえば、なにも難しいことではないのかもしれない。習慣の魔術というやつだ。試験で学生を落とすことにたいしてなんの感情も動かない教師というのも少なくない(はずだ)。そもそもこういった点にこそ裁判員制度の眼目があったのではなかったか。


 いずれにしろ、こういったアンビバレンスを解消することだけを目的とするのは間違っている。子供を叱った親は、子供に愛情があればこそ、呵責に悩まされるはずである。この矛盾を解くために、いっそ叱ることをやめてしまえばいい、というのであれば、それは倒錯的と言うべきだ。國分氏の理屈でいけば、およそ人を罰したり裁いたりすることは不可能になってしまう。
 表向きの意見と実際の精神状態をすりあわせろというのなら、たとえばいま現在、おおくの人は屠殺の場面を目前にしたら不快感を覚えるにちがいないが、それなのに菜食主義者でないというのは矛盾であり、われわれは想像力が欠乏していることになる。たしかにセンシティヴな話ではあるが、もとから死刑反対論者でないかぎり、國分氏の怒りを理解することはむずかしいのではないか。