ひとによってはすでにゴールデンウィークに突入しているそうである。ぼくには縁のない話だが、ひとをうらやむのはやめにしよう。意外と休日の方が体力的にはつらかったりするものなのだ。ぼくも今日はつらかった。朝が早いのがとくにこたえる。
 ぼくらが着いたときにはすでにI海岸ではサーファーどもが何人か没落貴族のように波に揺られていた。みんなどこからやってくるのかは知らないが、体力がありあまっているようである。運動体としてのCome in、粒子の一つひとつが抵抗もなく通過してゆく……



 で、帰りにブックオフで本を買った。すべて105円のものである。そのうち二冊はざっと読み飛ばした。となればもうこれは用なしのはずだが、本は処分が面倒くさい。用なしの洋梨のような死。


 ・小泉義之レヴィナス
 存在(「ある」)は世界を埋め尽くしている。それはわれわれ存在者にとって根源的な故郷のようなものではありえず、不気味で無意味で非人称的な現象である。たとえアウシュヴィッツがあったあとでも世界は依然とかわらず端的に「ある」のだ。
 レヴィナスは倫理を第一哲学と規定している。私の存在はただそれだけで他人への暴力であり、その他人の告発を聞き取ることに哲学の使命があるわけだ。そのため、かれの思想は苛烈なもので、たえずわれわれに反省を促しつづける。
 で、それはそれとして、この本で面白いのは著者が倫理のはじまりについてみずからのエピソードを語っている箇所である。なんでも著者は上京してきたとき駅の構内でホームレスに遭遇したそうで、そのとき自分がそのホームレスから受けた告発の印象に「倫理のはじまり」を認めている。だが、そうして虐げられた人たちのために「敵」と戦う、そうみずからに誓った心情は察するにあまりあるとしても、またそれがこれから新生活をはじめる人特有の高揚感と重なっていたであろうことを推測するとしても、これには少々困ってしまう。こうしてわれわれは弱者と仮想された「敵」の存在によってはじめて発動する「倫理」を手にすることになるわけだが、ところで、そのホームレスはどこから倫理をはじめたらいいのだろう? 彼はすでに「虐げられた人」であるから免罪されているとでもいうのだろうか? あるいは、もしその「敵」を名指ししうるとして、それもまた私にとって他者であり、私はかれからも告発されているはずではないのだろうか? 
 絶対的な強者が存在しないように絶対的な弱者も存在しない。といって何もぼくはそのホームレスの存在もまた他人への暴力であるといったようなことを言いたいわけではない。レヴィナスのいう「実在」が完全に周囲から孤立しているように、倫理というのは同じく語ることは出来ても分かち合うことは出来ないものだからである。せっかくの思想の苛烈さが政治性と偏見によって脱色されていくような気がした。と同時に、それとは反対に苛烈な倫理はけっきょく静観主義に逢着してしまうのではないかという危惧も感じた。


 ・丸山圭三郎「言葉と無意識」
 「同時に指標であって表出、記号であって非記号、一義的シグナルであって多義的シンボルである言葉は、二つの位相を貫いて垂直に働く同じ一つのロゴスだからである。ここに言う二つの位相とは、私たちの意識の表層にある制度化され物象化かれた<意識体系>の次元と、意味発生の現場でもある深層意識において働く存在分節活動の次元を指す」
 こうしてロゴス/パトスの二元論をしりぞけロゴスによる一元論が主張される。パトスはロゴスに対するものではなく、ロゴスそのものの深部にある「動きつつあるゲシュタルト」であるのだ。


 「言葉が言葉を紡ぎ出す。そこには意識的主体の明確な意図もなければ、まったくの偶然もない」
 とあるが、これではしかし詩の良し悪し、いや詩人の良し悪しといったものが何に由来するのか、その点について天才主義によってしか答えることができないのではないか。言葉が言葉を紡ぐのが偶然のないいわば必然だとしても、それがどの意識的主体を通じてあらわれるのかは必然と言って済ますことは難しいように思う。
 またそれに関連してヴァレリーの「私の内部の言葉は不意に私を襲い、私はそれを予見できない。それが語るとき、私はその語り手とは呼びえず、私はその聴き手になってしまう。自我とは内部の声の最初の聴き手なのだ」という文章が引かれているが、ヴァレリーは内部の声の「最初の聴き手」であるのみならず「唯一のそして特権的な聴き手」でもある。なぜなら、ヴァレリー以外だれもその声を聞いたものはいないからだ。われわれはヴァレリーの自我が語るのを通じてその内部の声を聞きうるのみなのである。


 言葉の連想には、1)意味の類似、2)音の類似があり、表層意識においては1)が、深層意識では2)のほうが優位であるそうだ。とくに2)は表層的な意味の崩壊のみならず主体の壊乱の原因にもなるという。岩田宏好きのぼくには興味深いところだが、(「ありふれたカリフラワー」……)残念ながらこれ以降の議論はかなり不自然というか曖昧である。
 2)のなかでもそれが述語にもとづく統合となるのが精神分裂病の典型的心的構造であるそうだが、その話の流れで、ある患者がイエスと葉巻の箱とセックスを「取り巻かれている」という述語によって同一視した例が引かれる。だがこれは1)の例であるように見えるし、「ここにいたって<意味の不在>は<主語=主体の同一性>をゆるがし、単に語の多義性からくる面白さには複数の主体の登場を呼ぶことが見えてくるであろう」とあっては首を傾げざるをえない。その患者はそれら三者を同一視していただけで、どこにも複数の主体など登場していない。
 こういったところからもこの本がいわゆるポストモダンなものであることが理解されるだろう。サルトルからチョムスキーまで、光と明晰と秩序を重んじる西欧合理主義のくびきを脱していないことで批判されるが、ではそれを脱したところで、非合理で前論理的な影の世界をどのように記述するか、そういった問題意識はどういうわけかいっさい持ちあわせていないようである。武満徹の「吃音宣言」が流暢な達筆で書かれていることを思い出そう。
 臨床心理学への批判もかなり怪しく思われる。薬物治療を批判したうえで、「社会復帰」という治療目的を「もし豊饒な生の働きをおさえて、均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう」と言うが、「豊饒な生」がどんなものかはいざ知らず、どうしてそれが社会的人格と相反するものであるのか、これでは不明なままである。
 そもそも「意識的か、偶然か」という意識的主体を前提とした表層的次元の二項対立を乗り越えられなかったことが、ソシュールアナグラム研究を頓挫させた原因であると主張する著者が「正常か、異常か」を問題にすること自体なにか曖昧な感じを残しているように思った。



 Aから電話。仕事が決まったそうである。「で、いつぼくに貢いでくれるのか」 折りよく電波の不調で彼女の返事は一言もなかった。