寒さが厳しくなってきた。とくに朝は耐えきれないほどに寒い。いくら仕事があるといったって、この寒さでは、家の扉を開けることさえ躊躇してしまう。だからこそ、こうして通勤に時間がかからないのは幸いである。あんな調子で毎朝何十分も外を出歩くなんてぼくにはとても不可能だ。
 で、勤務時間中は基本的に喫煙所でタバコを吸ってばかりいる。(でなければ、食堂でコーヒーを飲んでいる)



 たとえば、ある詩について論ずるときに、「技術が高い」だとか「筆力がある」だとか、こういったことはすべて無意味である。すくなくとも、その根拠が截然と説明されていないかぎり、そういった発言はすべて無効とみなしてかまわない。そして、その根拠を截然と説明することは、誰にあっても本来的に不可能なのであるから、そういった批評なり感想なりを見かけた場合、ぼくらがまず第一になすべきことは、何よりもその発言者の知性を疑うことである。
 一方、「技術が低い」だとか「筆力がない」だとか、こういった批判は、どの場合においてもある程度までは有効性を持つ。なぜなら、その根拠を提示することは誰にとってもおそらく容易なことだからである。そして、その有効性に限度があるのは、「容易さ」がすなわち批評精神の欠如を暴露しているからである。
 いずれにしろ、テクニックとはけっして雰囲気的なものではない。それは測定し、順位づけができるはずのものである。したがって、どんなに独創的で天才的な作品であろうと、やがては「練習」という観念に逢着する。



 昨日の夜空はすばらしく壮麗であった。電車がなくなったせいで、Mと一緒におよそ二駅分を歩くハメになったが、それでもそのあいだはとても気分がよく、着いたあともかえって歩き足りないくらいであった。そのためでもないだろうが、柄にもなく啓蒙的な話をしてしまった。「宇宙では距離がそのまま時間である」ということを、ぼくは彼女にうまく教えられただろうか?



 たとえば、ある詩が「古い」と言われようが、逆に「新しい」と言われようが、そのこと自体にとくに意味はない。要するに、そこに排他的な価値判断が入り込むことが問題なのである。一般に、そのような態度が批評精神の欠如からくることに間違いはない。そのような峻別の仕方はひどく容易な仕事だからである。


 ぼくは、Aを知っているか、あるいは覚えているときに「A´は古い」と言い、Aを忘れたか、あるいは知らないときに「A´は新しい」と言う。
 きみは、Aを能動的に学んだあとで「A´は古い」と言い、Aを受動的に学んだあとで「A´は新しい」と言う。
 そうして、二人揃って、BとB´を軽蔑する。