AとSとIの四人で、焼き鳥屋に行った。Aはドライバーでもないのに、ウーロン茶しか飲まない。Sは痛風の病み上がり(実際に完治はしないそうだが)なのに、おそるべき勢いでビールを飲んでいた。
 その後、Aが用事があるというので一緒に中古雑貨屋へ行った。結局、Aは何も買わなかったが、ぼくは古本をたくさん買ってしまった。端本のせいもあるかもしれないが、やはり文学全集のたぐいは値が安い。レコードも物色してみたが、こちらはろくなのが見つからなかった。



 夜明けの空を目撃するたびに、ぼくは魅了される。世界は死んでいる。そしていま世界は棺から出ようとしている。




 ユイスマンス「彼方」から――


 「無力を嫌い平凡を憎むというのが、おそらく悪魔主義のもっとも妥当な定義だろう」


 しかし、善の探求や愛の極地は、ある人々の魂にとっては接近できるとしても、悪のどん底はとうていきわめられるものではない。


 ともかく、研究する興味のあるのは、聖者と極悪人と狂人だけだ。話題にする価値のあるのはこの三者以外にはない。思慮分別のある人間は、要するに無価値だ。なぜならば、彼らは退屈きわまるこの人生の永遠の頌歌を反復しているにすぎないからだ。彼らは俗衆だ。多少の知恵を持っているとはいえ、要するに俗衆だ。おれにはそんなものはうんざりだ!


 ひとつひとつの罪悪の真正面に、必ずそれと対蹠的な善徳が発見される。



 ボードレールについて――


 「赤裸の心」は、パスカルの「パンセ」と同じく、死によってその完成を阻まれた箴言集であるが、これによってボードレールをフランスの伝統的なモラリストの系譜に連ねることが可能になったとも言える。
 モラリストたちは、それが実体験であれ、または読書から得た知識であれ、個別的な人間の日常行為を探求することで普遍的な人間性を発見しようと試みる。かれらはみな優れた「観察者」なのである。
 その点、ボードレールのような鋭敏な自意識の持ち主の場合、その箴言には「観察者」の姿だけでなく、「告白者」としての姿が色濃く出ているように思われるのである。


 「尊敬すべきものは三つしかない。僧侶、軍人、詩人。即ち識る人と、殺す人と、創る人だ。それ以外の人間は、厩に繋ぎ、租税や賦役を課し、所謂職業と呼ぶものをするための人間だ」
 はたしてこれは反社会的な発言だろうか。たとえば、現在のわれわれの学校教育のプログラムは、職業人ではなく、僧侶、軍人、詩人を養成するためのものであるようにぼくには思われる。


 「恋愛とは売春の趣味である。どんな高尚な快楽でも、売春に帰着させることができないものは一つもない」
 ピエール・クロソウスキー「生きた貨幣」を参照すること。


 
 きみの愛と思想が、
 やがてぼくの物語におりかさなり、
 夏の湖には、たえまなく雨が降るだろう。
 めいめいのボートを浮かべて、ぼくらは接近するだろう。
 すれ違う瞬間、ぼくらは櫂を打ち鳴らし挨拶しよう。
 へだてられたこの空間についても、また好意的に解釈しよう。
 しかし、ぼくらは相手の声が聞こえない。
 ぼくらはたがいに相手が自分の名を呼んでいるのかどうかわからない。
 雨音がいっとき激しくなる。