髪を短くしたTに、冗談で「失恋でもしたの?」とたずねたら、図星だった。一瞬、場が凍りついたのかと思った。おそらくあれはたがいに予想外の状況だったのではないのだろうか。
 それにしたって、いまどき失恋で髪を切る女なんているのかね。これではまるでぼくがデリカシーのない男みたいではないか。



 文学に関するかぎり、古典とは、いま読む必要はないけれど、いつかは読まねばならない本のことである。



 ボードレール


 「悪の華」や「パリの憂鬱」にかぎらず、すべて古典的な作品は、おびただしい量の解説と注釈によってすでに濁らされているか、もしくは無色透明にされているものであって、実際の読みの現場においてわれわれがどのような受容態度を選択するにせよ、その事実はけっして無視することはできない。


 かれの影響力は広汎におよび、あらゆる個人や党派がそれぞれの都合でかれを利用し、その汲み出せるものはみな汲み出していった。いまではかれを敬虔なキリスト教徒とみなすことも、異端的な悪魔主義者とみなすことも、同程度に正統性を持たない。


 ぼくがかれの詩とおなじく、あるいはそれ以上にかれの散文、とくに日記や書簡のたぐいを重要視するのは、かれの魂の遍歴になにか同時代的なものを、そしてさらに言えばより普遍的なものを期待するからである。


 「彼は事実、一般に考えられているのよりも偉大な人間であり、そしてあるいはそれほど完璧な詩人ではないのかも知れないのである」(エリオット)


 詩の形式には古典的な要素が(そしてその詩情にはロマン主義の影響が)すくなからず散見されるが、芸術家としてかれが発見した(探求した)生活の形式はおそろしく新奇なものであった。


 伝記を読むかぎり、かれが相当付き合いにくいタイプの人間だったことは間違いないが、しかしその原因がかれのいうダンディズム、その精神の退廃的貴族主義にあるようには思えない。かれの女性蔑視からは屈折した心理が容易に見て取れる。



 空はすみれ色。夜と朝が混色している。


 ぼくらは最後の星の弱い光に目をこらす。ぼくらはぼくらの姿は向こうの星からは見えないものだと思っている。



 缶コーヒーのブラックは、ことごとく麦茶の味がする。