クサカンムリにバケルと書いて、花。
 こんなことに感心してしまうくらい、精神は枯渇している。



 ここに一冊の本がある。以前読んだことがあるのは間違いない。しかし、そこに何が書いてあったのかはどうしても思い出すことができない。いまでも憶えているのは、それを読みながら、あるいはそれを読み終わったときに感じた漠然とした気分だけである。場合によっては、それすら記憶になく、その装幀の印象や手触りだけしか残っていないときもある。
 もちろん、それが本である以上、重要なのは中身である。中身とは、本であれば文章や図版など、いわば物質的で堅固なものである。しかし、後々までぼくをとりこにするのは、非物質的で移ろいやすいもの、すなわち気分、雰囲気、印象、感覚等なのである。


 そこに一人のひとがいた。ぼくはそのひとと会話を交わしていた。しかし、そのとき交わした言葉をいまのぼくはどうしても思い出すことができない。それは、断片的にしか記憶していないというのではなくて、奇麗さっぱり一言たりとも覚えていないのだ。いまのぼくをとりこにするのは、その場に流れていた、そしてそのときはあんなに捉えがたく思われた、あるひとつのfeelingなのである。いまのぼくはそれを明確に名づけることができる。しかし、名づけることは、その内部に批評を孕んでいるものである。いまのぼくに批評ほど耳障りなものはない。なにより、ひとは名づける努力ではなく(というのも、ひとは名づけられたもののなかでしか生きられないからだ)、名づけられたものから撤退する努力を選ぶべきなのだ。いまそこにある実在からの撤退。勇気ある撤退。



 「コーラ好きですよね」
 ここ数日で聞かれた回数は、とても片方の手では足りない。