図書館に行ってきた。日曜日のせいか、非常に混んでいた。かなり可愛い顔をした娘が、どういうわけかラフォルグの詩集を手にしていたので、早速声をかけてみた。が、結局連絡先は聞きだすことはできなかった。図書館でのナンパはそう簡単に成功するものではないことを痛感した。それとも、会話の運びになにか問題があったのだろうか? いずれにしろ、ずいぶんと血迷った行為だったような気がする。いろんな意味でガッカリしてしまう。ぼくは自分の溜息の数をかぞえることもできないなんて!



 ロラン・バルト「文学の記号学」を読んだ。「コレージュ・ド・フランス開講講義」ということで、手軽に読みきれる分量。
 バルトは冒頭で、この講義では「権力」が問題になるだろうと述べている。そして、バルトの意味する「権力」とは、すなわち言語のことである。「ある言語は、それが言うことを禁じるもの(修辞学的規則)によってではなく、それを言うことを強制するもの(義務項目)によって、いっそうよく定義されるが、それと同じように、社会的検閲は、話すことを妨げるところにあるのではなく、話すことを強いるところにある」として、その強制力をファシズムと名づける。「言語は単にファシスト的なのである」
 したがって、権力は言葉の意味内容にあるのではなく(もしくは「あるだけではなく」)、その言語形式にすでに孕まれているわけである。反体制的な集団が一転して圧力団体になりうるのも、まさにそのためである。この権力から逃れるのは非常な困難を要する。なぜなら、「自由は言語の外にしかありえない。が、不幸なことに、人間の言語活動に外部はないのだ」からである。
 そしておそらく、文学には唯一その困難を克服する力がある。「意味作用を満たしも閉じもせずに増やしてゆこうとする」「意味のはぐらかし」、つまり「さまざまな教義、党派、集団、文化が作品にひとつの答えを拭きこもうとするまさにその地点でその参加を宙吊りにしておく」ことによって、文学は権力に回収されることから逃避しつづける、あるいは、このような身振りこそが「文学」にほかならないからである。


 と、ここまで書いて、ぼくは自分がまったくバルトの論じるところに共感も同意もしてないことに気がついた。



 来週の土曜日は相当過密なスケジュールになりそうだ。それを思うだけで、いまから疲れてしまう。