人の波をかきわけて駅の階段を駆け足で下りていると、いきなりの腹痛におそわれ、そのまま動作が固まってしまった。とっさに何でもない風を装ってみたが、周囲からはあきらかに不審に思われたことだろう。こういった突然の腹痛は、けっしてありえないことではないし(そもそも突然でない腹痛などありうるのだろうか?)、しかしそれはありうるとしても実際に起こるのは稀なことであり、しかもその貴重さが全然ありがたくないのである。
 痛みの方はまもなくひいたが、あれ以来どうも体調がしっくりこない。
 腹痛は悪寒をともなうもののようである。のみならず、皮膚の感覚が普段より鋭敏になるような気がする。となれば、あるいはそれは腹痛がひきおこした事態ではなく、腹痛も含めてすべて夏風邪のせいだと考えるべきであるのかもしれない。だが、風邪というほどの症状はほかにはとくに見当たらない。ならば、もっと大括りに「疲れのせい」にしてしまえばいい。だが、そう言うのは簡単だけれど、ぼくは疲れるようなことを何ひとつしていないのである。
 わが肉体もいよいよ理解を絶してきたようだ。といっても、ぼくは心身二元論を支持しているわけではない。



 「恋の泉」はあっけなく読み終わった。現実離れしたストーリー(まるで話の都合に合わせるかのように、主人公は健忘症をわずらっている。たとえば氷室の登場、紹介のされ方。彼女は戦後のある時期、主人公の劇団に所属していて、主人公は彼女に恋の萌芽(?)のようなものを覚えたこともある。彼女はそののちに国際女優として成功し、ふたたび日本で主人公と再会するのだが、会ってその名を名乗るまで、主人公はその国際女優が自分が過去に知っていた少女と同一であることを知らないのだ。のみならず、その瞬間まで、その国際女優を別の劇団員の女性であるとの思い違いまでしている。ドラマ関係の仕事についているのにもかかわらず、この情報能力のなさである。どれだけ世間に疎いのだろうか)、妙に理屈っぽい語り口、そこかしこにちりばめられた文学的小道具――、ずいぶんブッキッシュな小説だなと思っていたら、それにつづいて読み始めた「雲のゆき来」で、中村自らブッキッシュであることを弁護している。そう言われては仕方がない。
 その点、「雲のゆき来」はブッキッシュであることがストーリーの骨格であり(つまり主人公の読書と話の進展がクロスしていることで)、なんの違和感もなく読める。というか、なかなか面白い。まだ読み終わってはいないけれども。
 しかし、どちらの小説にも散見される、日本(の知識人)にたいするデラシネであるという批判意識は、ぼくにはすこしも興味のもてないところではある。



 いま現在、ぼくはすこしも夏を満喫していない。その証拠に、こうして色白の肌をさらしている。
 KやMなどは「お盆があければもう秋」という認識らしい。ジェネレーションギャップだろうか?