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ひさしぶりに寝坊してしまった。おかげで、午前中は眠気と気詰まりのせいでかえって不機嫌になっていたかもしれない。もっとも、寝坊はひさしぶりでも不機嫌はいつものことである。太陽が沈めば、また上機嫌になることだろう。だから、Before Night Falls――、夜になるまえに、ぼくはやるべきことを片付けておかなければならない。
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小津安二郎の「秋日和」を観る。コミカルな演出が目につくが、それよりも全体を通じて執拗にあらわれる反復とシンクロが、不自然さを通り越して整然とした印象をのこす。むろんこの反復とシンクロは、作品自体で完結しているだけではなくて、ほかの小津作品とも通底しているものもある。そのため、小津ファンであれば、おそらくまた違った楽しみ方ができるだろう。また、この不自然さを通り越した整然さが画面構成における同様の整然さと相乗することで、見様によってはかなり異常な世界観を作り上げているようにも思われる。
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Sを見かけたら、めずらしくマスクをしているので、「風邪ひいたの?」と尋ねたら、親知らずを抜いたら顔が腫れてしまったのでそれを隠すためにつけているのだという。以下は、そのあとにつづく会話を記憶にある限りで正確に復元してみたものである。
「そう。歯の治療は面倒だよね」
「はい。おかげでご飯も食べられないんです」
「それは不便だね。じゃあ、キスもできないじゃん」
「それはわかりませんよ」
「じゃあ、試してみる?」
これをそばで聞いていたTが、冗談っぽくではあるが、その発言はセクハラだと会話に割り込んできた。
どこが?
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思い出したが、アレナスの「夜になるまえに」では、ガルシア=マルケスは日和見主義者と批判的に書かれていたはずである。
そこでぼくの連想は飛んで、山田宏一の「わがフランス映画誌」では、シュルレアリスムなどのアヴァンギャルド運動の全盛期がちょうどフランス映画における暗黒期であると書かれていたはずである。かれらの作品がいかにアマチュアの戯れにすぎなかったか、と。
これらがなぜ記憶に残っているかといえば、ぼくは、どういう理由があってかはわからないが、ガルシア=マルケスやアヴァンギャルド映画にこれほどまともな批判があるとはまったく予想していなかったからである。ほかにも同じような例はいくつかある。こういった不用意な安心感には注意しなければならない。「なんとなく安全」などということはありえない。そういった牌にかぎって、当たり牌のことが少なくない。
ここでまたぼくの連想は飛んで、麻雀では……
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明日は一日、何の予定も計画もない。この機会に中井久夫「徴候・記憶・外傷」を読みきってしまおうかと思っているのだが、さすがに一日では無理だろうか。
もちろん、いくら予定や計画がないといっても、たとえばぼくを誘惑するグラマラスな美女があらわれたとしたら、話は別である。