S駅の改札を抜けてロータリーに出ると、けたたましいクラクション。Hだった。ちょうど待ち合わせをしているところを偶然ぼくが通りかかったらしい。そうだとしても、人を呼び止めるのにあんなクラクションの鳴らし方をしてはいけない。象が交尾を始めたのかと誤解するではないか。


 Hはこのあいだの旅行にも参加しなかったので、会うのは今日が半年振りくらいである。前回のときも半年振りだったような記憶があるので、年二回、いわばボーナスのような男である。


 Hはこの歳にしてすでにバツ二のsurvivorな男で、会うたびに職も変わっていて、とにかくせわしない。以前は長距離トラックに乗っていたはずだが、いまは自作のアクセサリーを売っているとか。おそらくテキヤのようなものだろう。また、バツニの経験を活かしたのかどうかは定かでないが、さいきん十代の娘を妊娠させてしまったという。しかも相手は産むといって譲らないらしく、刻一刻と説得のタイムリミットがせまってきている。だからこうして呑気にしている場合ではないのだ。と思ったら、待ち合わせているのはまた別の女のようで、しかも話を聞くとぼくの小学校の同級生の妹である。せっかくなので、その娘の顔を拝んでから家に帰ってきた。ぜんぜん顔に見覚えがなかった。



 帰宅してから東浩紀存在論的、郵便的」を読み始めた。ネットで薦められていたものである。ざっと読み進めていると次の一節に目が止まった。
 「真理は知の郵便制度の、家族は血の郵便制度の完全性に守られている。そしてデリダの批判は、まさにその完全性に向けられている。……種=精子を散蒔き、真理と家族がよりかかる伝達経路の純粋性を攪乱すること。いやむしろ、そもそも純粋な伝達経路など可能性とすら存在しないこと、純粋な伝達経路とは語義矛盾にほかならないことを示すこと……」
 Hたちのように子供を認知するしないでもめている男女にはこれが何がしかのヒントになるにちがいない。



 そこでもう少し丁寧に読んでみよう。まず「真理」について。「『真理』の真理性は一般に、情報の伝達経路における劣化、事故の可能性を極限まで減らした理想状態としてイメージされている」という。これを言いかえれば、「伝達経路を完全に遡行すること、経路そのものを無化すること」にほかならない。そしてこの点に関しては紙幣も同様である。たとえいかがわしいお金であっても、そのお金自体はいかがわしくないのだ。「逆に経路が問題になるのは、偽装紙幣の場合である」


 つづいて「家族」について。家族もまた情報伝達に関係している。「例えば私とあなたとが同じ家族であることは、私たちが配偶関係にある場合を除けば一般に、父や母や祖父や祖母を共有する、あるいは私があなたの子や親であることを意味する」「言い換えれば決して自らの意志では解消できない種類の『家族』は、血の遡行可能性を根拠にして成立するのだ。そして血の系列とは言うまでもなく、文字通りにも情報(遺伝子)の伝達経路である」


 最後に「郵便制度」、それもデリダのイメージする「あてにならない郵便制度」について。「すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故の可能性に曝されている」
 「デリダが強く批判する『現前の思考』とは、その種の事故を最終的に制御可能だと見る思考法を意味している」



 で、まずぼくがスッキリしないのは、「真理」と「家族」の伝達の保証があべこべになっている点である。「真理」では「経路そのもの」が無化されるが、「家族」では逆にその「経路そのもの」が問題になる。だとすれば、「血の系列」がクローンを意味するのでない以上、「家族」と並置されるべきなのは本当は「偽装紙幣」の方のはずである。
 いや、これについては完全性を詐称した側に責任があると言えば言うこともできる。
 しかし「情報」というのもいまいち判然としないのだから困ってしまう。「遺伝子」という情報を例にとろう。「自分が発信した情報(遺伝子)が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報(遺伝子)が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり」とはどういう事態を指すのだろうか。まさか、息子が成長するにつれ、自分ではなくひいきにしている酒屋のせがれに似てきた、といったようなことを意味するわけではないだろう。それではかえって遺伝子が正常に伝達されたことを証拠づけることにしかならない。となれば、処女懐妊は奇跡ではない、とでも言いたいのだろうか。
 


 なんにしろ、こうしてぼくらは、子供の認知をせまってくる女にたいして「君は現前の思考にとらわれている」とやり返すことが可能になる。もちろんこれには何の効果もないだろう、バカの振りをしたいのでなければ。
 なお、↑の「真理」や「家族」というのは隠喩=概念であり、通常の含意で使われているのではないそうだ。それもそのはずである。それは「家族」の定義の不自然さを見れば一目瞭然だ。普通に考えれば、夫婦とはまちがいなく「家族」であるし、ときには血の繋がりがあっても「家族」と呼べない関係もある。
 


 

 Hについてはその後の報告を待つしかない。半年後、ということにはならないと思うが……
 ぼくにも覚えがあるが、不感症気味になるとすぐ生でしたがる、あれは危険な綱渡りであることをよくよく心がけておくべきだ。



 日焼けの赤みがひくと、顔、肩、背中の順に皮が剥けた。腕にはまだ多少のこっている。
 さっき風呂場で背中の分はぜんぶ剥がしたが、律儀にやっていたら三十分近くかかってしまった。ぼくは早風呂の人間で、本心を言えば風呂なんて入らないで済むならそのほうが有難い。ああ、脱皮するのも楽ではないのだ。三十分背中をこすってみても羽のひとつも生えてこない。