なんら理想を持たないこと。これがぼくの理想である。そして、その理想がすでに現実になっている以上、ぼくはみずからの理想どおり、一切の理想からすっぱり手を切った人間であることになる。
 理想を持たないということは、それを心理の面から言えば、現在に充足しているということを示しているだろう。つまり、何にたいしても否定的な感情がないのである。むろん、否定がなければ、肯定もその存在意義をうしなってしまう。しかしこれは断じてニヒリズムではない。なぜなら、そこにあるのは無力感ではなく、充溢感であるからだ。あえて言うならば、このように一切の判断価値を棚上げすることで、物事はおのずと肯定されてゆくものなのである。ただ、その肯定は否定を媒介としていないぶんだけ攻撃性がないというだけの話だ。
 しかしながら、理想を持たないということは、ある種の道徳観に抵触する恐れがある。のみならず、それは意志的な「進歩」や「成長」を断念することで、必然的にある種の教育観とも相容れないことになる。子供にむかって「将来の夢は?」と聞いて、何の答えも返ってこなかったとしたら、きっと大人は苦い顔をするだろう。場合によっては、怒り出すこともあるかもしれない。
 多くの場合、理想を持たないということは、こういった道徳観や教育観からの「ねじれ」であると説明できる。つまり、「理想を持つこと」を強いられた結果、―「理想」には限度がなく、またそれがかならずしも実現できるわけではないのだから―、そこからの逃避として、理想を放棄するのである。
 しかし、もしもひとたび「理想を持つこと」の根底に隠蔽されている、ある薄暗い情念に触れたとき、それでもひとは快活に「理想」を喧伝できるだろうか? そこにはつねに自己否定を自己欺瞞がわだかまっているのである。あるいは、それを認めつつもそこから離脱してゆくことはできないだろうか、それも自己否定や自己欺瞞を、可能なかぎり拒絶することによって? もしそれが可能であるとしたら、―ぼくはこれを「勇気ある撤退」と名づけたい。
 歴史をひもとけば、「理想」の二面性、つまり、その正と負、両面が如実に観察される。「理想」によって人類は洗練され、また同時に野蛮化されてもきたのである。この道程は、これから先も変わらず続いてゆくだろう。
 先に「否定がない」うんぬんと書いたが、これについてはもっとくわしい説明が必要だろう。しかし、いまはそれだけの準備がない。いや、そもそもそれだけの技術も知識も持ち合わせていない。ただ、これは何もヒューマニスティックな意味ではないこと(要するに博愛精神とは無関係であること)、また、反ヘーゲルを意味しているわけでもないこと(ぼくはむしろヘーゲルを学ぶ必要性を感じる)、このふたつはとりあえず確認しておきたい。


 ……人間の偉大さを言い表す私の決った言い方は、運命愛である。すなわち、何事も現にそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。未来に向かっても、過去に向かっても、そして永劫にわたっても絶対にそう欲しないこと。必然を単に耐え忍ぶだけではないのだ。いわんやそれを隠蔽することではさらさらない。――あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘いつわりにほかならぬ。――そうではなく、必然を愛すること……



 ぼくらの振舞いや行動といったものは、大体がすでになされてしまった何事かを、回収し脈略をつけるためのものであって、にもかかわらず、そのすでになされた振舞いや行動を、さらに回収し脈略づけるために、またあらたな振舞いや行動が要求され……といった具合に、いよいよそれらはとりかえしのつかなさを露呈させてゆくばかりなのだ。それはまるで、ひとつ嘘をついたら、それをごまかすためにまた嘘が必要になり……といつまでも嘘を重ねてゆかなければならないのと同じことだ。真実は誰にも知られていない。



 いまだ「真夏」といった気候にはめぐまれていないが、ぼくの周囲にもすでにこんがりと日焼けした人の姿がちらほらと目立つようになってきた。Tなんかはひどく赤い肌で、見ているだけで痛そうだ。(昨日のライブが屋外だったという話)おや、Kもすっかり日焼けして――いや、あれは腎臓の悪い人の肌の色だ。土気色というやつだ。