目が覚めたあと、ベッドから起き上がる前に、その直前まで見ていた夢を反芻することが習慣になってきた。といっても、寝起きは頭が働かないせいもあるだろうが、どんなに思い出そうと努めてみても、けっきょく毎回ぼんやりとした焦点しか結ばない。夢の輪郭をはっきりと記憶に定着させるのは難しいことだ。他のひとの夢の記述を読むと、(不条理ではあれ)ストーリー性に富んでいたりするものなのに、どういうわけかぼくの見る夢は無味乾燥としている。そのためか、ああいった暗示と象徴を孕んだ夢というのは、だいたいが事後的に組み立てられたものではないか、という疑いを拭い去ることができない。
 それでも、この習慣のおかげでわかってきたこと、もしくは自分なりに整然としてきたことはいくつかある。
 まず第一に、どんなに印象深い夢でも(そもそも夢が直接与えるものはある種の印象でしかないのであって、ようするにその強度が問題になるわけだが)、それが印象であるかぎり、その効能を他人に伝えることはできない。「今日面白い夢を見てさ……」と語り出される話は、まず面白くない。もしそれが面白いとしたら、何かしらの脚色が施されているのではないかと思う。少なくともぼくの場合はそうである。
 つづいて、ひとつの夢のなかにもいくつかの場面や事柄が含まれているが、それらは継起的に訪れるのではなくて、混在したかたちで一挙に提出されているのではないかと思うようになった。先に述べたストーリー性というのにも関連してくるが、ストーリーには本来、体感的な時間の流れというものが必要不可欠のはずである。その点、夢において時間は凍りついている。もしくは非常に断片化していて、いずれにしろ、ストーリーにまで組成していかないのである。それをストーリー化するのは、おそらく目覚めたあとの理性的な働きによるのではないだろうか。
 もっと単純に、自分の見る夢をパターン化することもできる。たとえば、身体の動きが機械仕掛けのように錆びついたり、簡単な動作がなぜか困難な動作にすりなってしまう、といったことがよくある。歩こうとすると、足元が滑って一向に前に進めない。自転車に乗ると、かならずと言っていいほど、きつい角度の上り坂で、舗装も悪い。(ちなみに、ぼくはここ十年以上じっさいの自転車には乗っていない)
 あと、ぼくは夢のなかで未知の人物に出会ったことがない。記憶に残っているかぎりで、という留保つきだが、それでも、あってもせいぜい数回程度といったものではないかと思う。むろんこれは夢のなかでは未知のことでもあたかも既知であるかのように振舞える、といった次元の話ではなくて、もっと実際的なレベルでの未知の人物に、ぼくは夢のなかで出会ったことがないのである。
 ロマン主義シュルレアリスム精神分析。人間存在の根源をめぐって夢の探索はつきないが、でもね、寝る暇も惜しむほど多忙な人間が世の中には少なくないんだよ。



 舌が荒れているのか、先のほうに痛みがある。知らないうちに噛んでしまったのかもしれない。もしくは、セックスの後遺症かもしれない。



 土曜日はTのバンドのライブ。日曜日は地元の友達とバーベキュー。月曜日は仕事のために横浜の方まで行かなくてはならない。この、目の前にある、買いこんだCDと本の山は、一体いつ消化できるのだろう。



 Yと久しぶりに飲んだ。「ぜひ飲もう」と言ってくるから、なにがあるのかと期待していたのに、とくに変わった様子はなかった。もしくは、その点に関してこちらから探りを入れられるのを待っていたのだろうか? どうしてあんな熱心な感じで催促してきたのか、いまから思えば不思議である。
 (Yの服装。前回はタイトなセーターを着ていたが、今回はダルダルなTシャツを着ていた。Yのタバコ。前回は「禁煙している」と言って貰いタバコしていたが、今回はちゃんと持参してきた。Yのアート。前回は造形美術に興味のあるようなことを話していたが、今回は写真撮影に凝っている話をA相手に熱弁していた。Yの女性遍歴。前回、今回、ともに草食)