YとSと食事。普段と違って、わりあい早い時間に集合したため、いつも以上に夜が長く感じられた。すれ違う街のひとたちも、いつも見掛けるのとはまた違ったタイプのひとたちが多いように思った。街は時間帯によって表情と姿態をいく通りにも変化させるものだ。
 そのおかげで、今日知り合えた女の子たちも、いままでぼくらの周囲にはあまり見かけなかったタイプのひとたちで、普通に話をするだけでもたのしかった。なんだか思いがけず十歳も若返ったような心持である。
 で、そこまではいいとして、そのあとに急激な展開が待ち構えていることを、そのときのぼくは、呑気にもまったく予期していなかった。とくに、Kの年齢を知ったときは、凍りつきそうになった。自分が十歳若返ったように感じられたのは、彼女が十歳以上年下であってみれば、当然の帰結であったということになるのかもしれない。
 ぼくは自分の頭のなかから変な下心が一瞬で吹き飛んでゆくのを感じたが、そうなると今度はKの露骨なスキンシップにたいして意識的になってしまい、そうこうしているうちに、おたがいのあらゆる振舞いがだんだんバカらしく思えてきた。なにを思い煩う必要があるのだろう? 
 彼女は人当たりのよい、さっぱりとした性格をしているので、今後も機会があれば会ってみたいように思った。



 火曜日の夜は送別会がある。とうぜんぼくも参加する。会費はひとり五千円。で、ぼったくっている奴はどこのどいつだ?



 野球熱が高まっている。ぼくの周りでも、ルールすらおぼつかないひとですら、すすんで話題に挙げてくるほどである。
 しかしその一方で、こういったナショナルな高揚感にたいして、直裁に危険視するひともいれば、漠然と馴染めないものを感じとるひとも存在しているにちがいない。
 ぼくはといえば、その両方からひとしく遠い。要するにまったくの無関心派である。もっといえば、無関心ゆえの関心派、あるいは関心ゆえの無関心派ということになる。
 ジャーナリスティックな興味は人一倍強いといえるが、それはあくまで冷めた興味であって、何事にしろぼくにアンガージュする気はさらさらない。たとえば、もしいまも世界のどこかで理不尽な抑圧を受けているひとたちがおおく存在しているとしても、それにたいしてぼくがなすべきことは何一つないとしか考えられないのである。なにかを誘導することも、なにかに誘導されることも、つまり一切の身振りのおおきな言動はまっぴらなのである。
 理想を言えば、政治、経済、芸能、スポーツ、これらはみな正確で公平なジャーナリズムがあれば、それだけで充分なはずである。解説やコメントはかえって有害でしかないと思う。