仕事が終わったあとで、みんなと食事。これでTとは四日連続いっしょに夕飯を食べたことになる。
 話をすればするほど、女は顔で選ぶというTのポリシーが徹底していることに驚かされる。そういった信念は、実際の恋愛の場面になれば、だいたいが結果として、いやがうえでも頓挫してしまうことになるものだが、Tにはそのような経験が皆無である。その完璧なまでの潔癖さは、他のひとたちのあいだではなかなか見出されるものではないし、あるいは、見様によってはかなり異常であるとさえいいうるものだとおもう。



 ここ何日か、恋愛について、または結婚について、よくひとから尋ねられた。なぜ恋人をひとりに絞らないのか? 年齢的にはもうおちついてもいい頃のはずではないか? 結婚願望は? 浮気の境界線は? 理想の女性像は?
 まず確認しておくと、「なぜ〜でないのか?」というのは、もともと答えることが困難な問いである。たとえそこにどんなに綿密な説明を与えたところで、要するにそれは事後的な解釈を積み重ねてゆくだけにすぎない。それだけでは「なぜ〜でないのか?」を十全に解説したとはいいがたい。結局は「そうなるチャンスがなかったから」としか答えようがないのである。
 それを踏まえたうえで、こういった話は、ぼくにはそのひとに本来そなわった性質というものがとても重要だと思われる。それは、そのひとが備え持つキャパシティーの量と質の問題である。
 もしぼくが家庭を持つことになったら、おそらく生活はそれだけで手一杯になってしまうだろう。それは単純に経済的な事情からでもあるし、また、精神の許容量という面から見てもそうである。むろん、ひとによっては、家庭を持つことがもっとポジティブな作用する場合もあるだろう。それでもおおくの場合は、家庭を持つことは、それまであった自分の領域を徐々に縮小させてゆくことを意味するのではないかと思う。関係や興味といったものが閉塞的になってゆくことは否みがたい事実であると思われる。
 その何が悪いのかと言われたら、ぼくには返すべき言葉がない。
 

 どのような恋愛を体験するか、あるいはどのような家庭生活を築いてゆくか、そういったことは、所詮、すべては各人がどのようなフォームを選び取るかということである。すでに世の中に流通しているフォームを自家薬籠中のものにすることで、ぼくらはそれをそのひとの個性であると、幸福にも錯覚することができる。したがって、フォームを逸脱することもまたべつのフォームにすぎず、ぼくらは与えられたものを与えられたままに演じるだけでしかできない。
 もし「本物の乞食」が存在するとしたら、それはこのような桎梏からみずからを解き放った者のことであろう。現実には、先にも述べたとおり、フォームから逃れることでまた別のフォームにからめとられたり、ただ単に無能力であるためにフォームから排除されただけであったりすることがほとんどで、そういった理念としての「本物の乞食」というのははなはだ困難な存在なのである。


 と、どうにも論点がはっきりとしないが、恋愛話をきっかけに以上のようなことを考えた。こういった考えはまちがいなく一種の宿命論だが、それが論理的にはナンセンスであることを認めても、経験的には簡単に一蹴できるものではないようにぼくには思われる。



 それは密室の爪 それは甘美な花綵のアドレス
 液化する彼女の鍵穴のなかで
 ぼくの星たちは俘虜になる
 純白のシーツがしぶきをあげて
 ぼくの深海魚たちは盲目になる
 痙攣をはじめる彼女の銀河
 その中心点では暴力的にも
 彼女のUFOが旋回をはじめる
 彼女は殺菌されたぼくの精液のなかに
 おそらく劇薬を流し込もうともくろんでいる
 電撃鰻の轢死
 実在は可燃性でセクシャルである
 終りの見えないこの暗黒時代に
 ぼくと彼女の貨幣市場は無償性を指向する