古井由吉「『私』という白道」を読んだ。私小説作家の作品にあらわれる「私」を論じているのだが(そこには漱石も含まれている)、みずからも熟達した小説家であるためか、その作品の読みには啓発を受けるところがおおい。古井は「私が私を語ることは方法論的に矛盾を招く」という確認から話を進めてゆく。私は私自身を語れないのに、それで本当に他人を語ることができるのだろうか?



 恋愛が顕著な例であるように、人間関係には心理戦という一面があり、そこでは感情が冷めている方が断然有利である。
 しかし、その戦いを通じて内面的な充実感を味わうことができるのは感情にのぼせた方であるのだから、最終的に勝敗の判定を決するのはなかなか容易なことではないだろう。
 ただし、ぼくのように努めて冷静さを装おうとして、結局毎回それに失敗してしまうような人間の場合、みずから不利な状況を招くとともに、あとにのこるのは不満足感だけといったとても惨めなことになる。これについてはみずからの経験のうえからみても、まず確信を持ってぼくは断言できる。



 田村隆一「灰色のノート」、M・ボス「性的倒錯」、ノルベルグ・シュルツ「実存・空間・建築」



 A queen of town、あのニンフォマニア
 スカートのなかに頭を突っ込んで、みずから窒息死を選んだのは、
 ひとりの狂える少年ではなかったか?
 ふいに列から歩み出て、おおげさに降伏の身振りを示したのは、
 ひとりの悩める歩兵ではなかったか?
 どんな騎士道精神が、ぼくらの友愛のために残されていただろう?
 (退屈な議論とコーヒーだけで、ぼくらは何時間も喋りつづけた)
 形式化された魂のために、どんな倒錯的な恍惚があっただろう? 
 (ときには黙ってドアノブに手をかけたまま、一瞬ためらうこともあった)
 あるいは、そのときすでに、
 死はぼくらをとりこにしていたのではなかったか?
 (朝はぼくらの足音を厳粛に聞き分け、
  ぼくらは自分の影にさえ怯えるのだった)
 壊れたコンパスのようなステップで、ぼくらの足首は、
 これからどんなリズムを刻むというのだろう?
 どうして、ぼくらは失われた時間を求めることで、
 少なからず時間を失ってしまうのだろう? 
 なぜ飢えた犬は肉しか信用しないのか?



 地元の友達、つまりぼくと同年の友達は既婚者がおおい。そしてそのほとんどには年子の子供がいる。ぼくは家族を持つことにまったく関心がないので、自分の子供、しかも年子というのは、考えただけでも空恐ろしいものがある。
 かれらは避妊の仕方を知らないのか? ――、どうしてぼくがそんなことを知っている?
 なぜあなたは結婚しないのか? ――、ぼくが結婚すると、たくさんの女性が不幸になるから。(そこにはむろん当の結婚相手も含まれている)