目覚ましをセットし忘れたせいでひさしぶりに大胆な寝坊をしてしまった。Nの電話がなかったら何時まで寝ていたかわからない。
 それにしても、毎日のことなんだから、目覚まし時計もちょっと気をきかせていつもの時間に起こしてくれればいいのに。いや、起こすのに気が引けるなら軽く声をかけるだけでもいい。そんなに機転のきかないやつだとは思わなかった。



 K駅で忘年会。MやYは会うのが数年ぶりだから、顔を見合わせていてもなんだか落ち着かない。Mは家庭を持って外に出歩かなくなっていたし、Yは刑務所暮らしで外を出歩けない境遇にいた。二人とも来年からは以前と同じ程度には連絡がつくはずである。
 Yの刑務所話はどこまで笑い飛ばしていいのか、ためらうところがないではなかった。兵庫までの護送は新幹線のそれも一般車両で、いい晒し者にされたそうである。手錠というのはSMプレイに使うためだけにあるのではない。



 店を変えながら、始発までとりとめのない会話がつづく。やがて一人二人と帰っていき、駅前でいよいよ解散というときになって、とつぜん空から鳥が墜落してきた。ビルの壁に激突したらしい。痛々しい飛び方で空に帰っていったが、あれは何を暗示しているのだろう? ぼくは胸の騒ぎをおぼえた。ぼくらのなかにはすでに明暗がひそんでいる。朝あけの色に脱皮していく空。あの鳥はあれからどこに飛び去っていったのだろう。

 生気のない生活。例1、Fの借金話。返事に困ってしまう。例2、Mの痴話話。興味の持ちようがない。
 天気もすぐれない。雨が止んだと思えば風が吹き荒れる。今日だけで何千というミニスカートがめくれあがったはずである。うっかり下着を履き忘れてこようものなら軽犯罪に問われかねないところだ。



 S駅まえを歩いていたら、見知らぬ青年に「今日これからこの辺でライブがあるんです」と、いきなりチケットを手渡された。前売り券1500円。どういうつもりなのだろう? とにかく受け取るだけ受け取って、そのまま家に帰ってきた。



 國分功一郎のブログで面白い記事を見つけたのでメモ。
 http://ameblo.jp/philosophysells/entry-10718864204.htm


 世事に疎いぼくは当然その「記事」というのを目にしていないから、そのせいかもしれないが、どう注意深く読んでも不可解な印象がぬぐえない。
 まず第一に、ごくふつうに考えて、裁判員制度における裁判員の精神的負担は、なにも死刑判決を下したときだけに生じるものだとは思えない。「死刑」を下すときにはダメージがあるが、これがたとえば「終身刑」や「無罪」だったら安穏とできたのに、というのならば、それこそまさに「想像力に大いに問題がある」と言わねばならない。ようするに死刑だけを特化する必要性が不明なのだ。「『本当にこれでよかったのか…』と一生涯悩み続けなければならないほどの疑問」は、ままにならない人生だ、とくに珍しいことではないのである。


 どんなレベルであれ、人を裁くことにはイヤーな後味が残るものだ。あるいはそれを専門的な職業としてしまえば、なにも難しいことではないのかもしれない。習慣の魔術というやつだ。試験で学生を落とすことにたいしてなんの感情も動かない教師というのも少なくない(はずだ)。そもそもこういった点にこそ裁判員制度の眼目があったのではなかったか。


 いずれにしろ、こういったアンビバレンスを解消することだけを目的とするのは間違っている。子供を叱った親は、子供に愛情があればこそ、呵責に悩まされるはずである。この矛盾を解くために、いっそ叱ることをやめてしまえばいい、というのであれば、それは倒錯的と言うべきだ。國分氏の理屈でいけば、およそ人を罰したり裁いたりすることは不可能になってしまう。
 表向きの意見と実際の精神状態をすりあわせろというのなら、たとえばいま現在、おおくの人は屠殺の場面を目前にしたら不快感を覚えるにちがいないが、それなのに菜食主義者でないというのは矛盾であり、われわれは想像力が欠乏していることになる。たしかにセンシティヴな話ではあるが、もとから死刑反対論者でないかぎり、國分氏の怒りを理解することはむずかしいのではないか。

 鬱になったときは語学に打ち込むこと。この安吾流の療法をここのところ気分の冴えないぼくも実践してみようと、さっそく仕事帰りに本屋の語学コーナーに寄ってきた。
 便利な世の中で、ところせましとたくさんの参考書がならんでいる。どこの国の言葉なのか、世界地図を手にしてもわからないようなマイナー(?)なものまで豊富にそろっている。ぼくの場合、語学よりも地理の勉強を優先すべきなのかもしれない。あるいはそれより先に日本語を学べという説もある。
 べつに実利的な目的があってのことではないのだから、なにを選ぶかはこだわる必要がないわけだが、ラテン語を選んだのはおそらく下心があってのことである。


 一緒に「ダンテ神曲講義」というのも買ってきた。本の場合、一種の投資というか、「いつか読むだろう」という希望的観測があって、それほど拘泥せずに財布の紐がゆるくなってしまうのである。



 左耳の付け根に腫れ物ができた。押すと痛い。場所が場所だけに日常生活で触れたりなにか物に当たったりする機会は少ないが、それでも少しはストレスになる。左の奥歯も痛く、これは虫歯ではなく歯茎が腫れているだけのようである。これも普通にしていればたいして気にはならないが、一度気になりだすとそれだけで全神経がそこに集中してしまう。



 道路に猫の轢死体。緑と茶が混ざったような液が伸び広がっていた。

 生年月日を確認してみると(なお死亡年月日は確かめられない)、どうやら今月でぼくが30 years oldになることにまちがいはなさそうだ。
 しかしながら、気分の上ではまったく実感がないし、じっさいいろんな面で10代のころより年々退化してきている。例はなんでもいいが、たとえば電話応対ひとつをとってみても、なぜ当時あんなにフルーエントにふるまえたのか、いまとなっては不思議でならない。現在のぼくは掃除の仕方もわからないし、時間通りに目を覚ますこともできない。靴紐を結ぶのでさえひどく難儀だ。
 高校をなしくずし的に卒業して(卒業式は出席できず校長室に閉じ込められていたが)以降、なんの区切りもない人生を送ってきたのが原因かもしれない。貯金もなければコネクションもない。野望もなんら持ち合わせていない。ニヒリズムとも縁を切ってしまった(ここ一二ヶ月のぼくは厳格なストア主義者である)。over 30となってはもはやロックンロールからも信頼されない。
 Tから(かれはぼくの1コ下である)「大台に乗った感想は?」と聞かれ(何の大台だかよくわからないが)、「はやく大人になりたいもんだね」とすかさず答えた。ユーモアのセンスも皆無である。こりゃ長生きするぜ。



 で、思い出すのが、これもすでに10年以上も前のことになるが、T駅のプラットホームで見知らぬオバサンに話しかけられたことだ。どんな外見だったかはもう覚えていない。そんな怪しげな格好はしていなかったはずだが、話す内容は一から十まで怪しげで、たぶん新興宗教の一種だろう、ようするに「あなたは血が汚れて」いて、不運を呼び込む体質だから「わたしに相談させてほしい」ということだった。ぼくが曖昧な表情を浮かべていると、調子に乗ったのか「このままではあなたは夭逝する」とかなんとか大げさなことをぬかしはじめるので、「悪人は長生きするというから、ぼくは大丈夫ですよ」と可能な限りの愛想をこめて答えると(いまのぼくならそもそも最初から相手にしない)、それをいっさい無視して勝手になにやら念仏を唱えはじめた。恐るべき事態だ。駅のプラットホームで見知らぬオバサンに念仏を唱えられたとき、どう対処してその場を切り抜けるべきか? マニュアルはない。ぼくはオバサンを放置してさっさと電車に乗り込んだ。そして間違えて幕張方面にむかってしまった。
 ぼくは深く反省した。オバサンの言っていたことは正しかったのかもしれない。というのも、オバサンに話しかけられたこと自体がまさしく不運にほかならなかったんだからね!



 「白鯨」を再読中。

 今月はお金がなくて満足に洋服も買えなかった。それでも今月はサマーシーズンでやり過ごせたので不便はなかった。来月からはすこしは肌寒くもなるだろう。となれば、はやめに最新のトレンドに便乗しなければならない。ぼくをワンシーズンを3パターンくらいでやり過ごすので、そのぶんだけ厳選しておく必要があるのだ。



 ニューヨークに関するこの本は、1948年、酷暑つづきの夏のあいだに書いたものだ。読者はおそらく、時の流れと推移のために、もはやこの街にはあてはまらない観察のいくつかに気づかれることだろう。私が執筆していた期間というのは、酷暑だけでなく好景気でもあった。いまやあの熱波は過ぎ去り、あの好景気も終わりを告げた。いまのニューヨークには当時のような熱気はない。この本の中でとりあげたラファイエットホテルも、それにもかかわらず、いまではなくなってしまった。しかし、ニューヨークの本当の熱度というのは、ある意味では変化していないし、最新の状況に合わせて書き直すつもりも私にはない。最新のニューヨークをとりあげるなら、光の速さで出版する必要がある。ハーパーズでさえそんなに早くはない。それに、ニューヨークの最新をとりあげるのは、著者ではなく読者の仕事であると私は思う。そして、それは仕事というよりも、むしろひとつの愉しみであるにちがいない。



 無理な体勢でパソコンに向かっていたら、気分が悪くなってきた。だれかこの部屋を掃除してくれ。

 速報。Sの家のウォシュレット、水圧が強。知らずに使って、おもわず声が出そうになったではないか。この家の住人全員どんな肛門しているのか、見せてみやがれ。



 Sの子供はテレビゲームがうまい。ぼくがそういう遊びをしてこなかったせいもあるのだろうが、ぜんぜん相手にならなくて、その張り合いのなさが癪に障るのか、露骨に不機嫌な様子である。なんかムカつくぜ。こんなのではなくて、情操教育のためにも、もっと泥臭い遊びを教えたらどうだろうか。テレビゲームなんて100年早い、おもちゃなんて割り箸と輪ゴムで充分ではないか。Sがいうには「そんなの子供が可哀想すぎる」とのことである。たしかに想像してみると、不憫すぎて笑えてくる。
 科学。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだろう。



 夏の終わりにはきまって頭の芯が痺れてしまう。
 ぼくはよくその素性を知らないが、会社の偉い人らしいオッサンが言っていた。「今年は残暑が厳しいざんしょ」
 だから情操教育は大切なのだ。

 台風接近の報せ。小学生のころは台風が来るとなるとそれだけでわくわくしたものだ。こうして分別をわきまえたアラサーともなると、――そんなんじゃ胸はときめかないぜ!



 たばこ値上がりについて。Sが言うには、クレジットを使ってでもまとめ買いしておいた方が、けっきょくは得になるのだとか。吸いきれない分は転売にまわせばいい。
 そんなことにくよくよ神経を使っているから、ニコチン中毒から抜け出せないのだ。


 そんなことしなくても、口元がさびしくなったら、おっぱいを吸えばいい。Tの発言である。いかにもプレイボーイぶったその口吻がかえって白々しい。
 Aの胸は洗濯板であるから、乳首を吸う以外なすべきことがない。こういったセックスライフを送らざるをえないぼくのような人間の立場も考慮してほしい。



 Sの話。結婚は人生の墓場というが、S夫妻にもさっそくその兆候があらわれてきた。なんでも嫁が下着に頓着しなくなってきたそうで、先日にいたってはホームベースと見紛うようなパンツを履いていたという。元野球部のSであるから、それを見て迷わず頭から突っ込んでいったとか。高校球児たちのながい夏はすでに終わりを告げてしまったが、ここではまだゲームセットのサイレンは鳴っていない。最後の一球まで目が離せない。とういか、これ、のろけ話のつもりか? 前も同じような話を誰かから聞いたぞ? こういう出来合いのネタがあるのだろうか。
 Tの話。円高に乗じてハワイ旅行。キャバクラ勤めはそんなに景気のいい商売なのか。
 Kの話(Sからのまた聞き)。八月の中ごろ、ようやく刑期を終えてシャバに出てきた。そのさい養鶏所の仕事も斡旋してもらったそうだ。これでめでたく社会復帰、と言いたいところだがそう上手いこと話は運ばず、一週間もしないうちにそこを脱走してしまったとか。知り合いもいない、レジャー施設もない、そんな僻地の生活に耐えられなかったのではなかろうか。いずれにしろ、Kみずからの弁明というのがふるっている。いわく「おれは鶏じゃねぇ」


 誰かもっと陽気になれるような話をぼくにしてくれ。